大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第三小法廷 平成4年(行ツ)185号 判決 1993年2月02日

上告人

柴沼弘道

右訴訟代理人弁護士

居林與三次

武内光治

被上告人

茨城県選挙管理委員会

右代表者委員長

内藤健二

右参加人

田山東湖

右訴訟代理人弁護士

大津晴也

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人居林與三次、同武内光治の上告理由について

原審が適法に確定したところによれば、上告人の亡父柴沼弘は、五期にわたり茨城県議会議員を勤め、死亡した昭和六三年一〇月二七日当時は県議会議長に就任しているなど、地元ではかなり著名な人物であり、一方、上告人は、右亡父の死亡後にその後継者として本格的な政治活動を開始したというのである。この場合、右亡父の死亡及び葬儀の模様がマスコミにより広く報道されたとしても、本件選挙において、一般の有権者はもちろん、投票所に出向いて特定の候補者を支持しようとする有権者も、右亡父の死亡の事実を知らず又は忘却して、その者がなお生存しているものと誤信することはあり得るところである。したがって、右事実関係の下において、原審が、右亡父が地元で著名人であったこと及び上告人の知名度が亡父と比較して低かったこと等から、亡父が本件選挙に立候補しているものと誤認、混同される客観的情況が存在しているとした上、「しばぬまひろし」と読み取れる本件投票については、候補者たる上告人ではなく右亡父を表示したものと推測すべきものが含まれており、本件選挙の候補者である上告人の氏名を誤記したものにすぎないのか、あるいは候補者でない上告人の亡父を指向したものであるのかについては、そのいずれとも認め難いので、これを上告人に対する有効投票とは認めることができないとした判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨はすべて採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 坂上壽夫 裁判官 貞家克己 裁判官 園部逸夫 裁判官 佐藤庄市郎 裁判官 可部恒雄)

上告代理人居林與三次、同武内光治の上告理由

第一点 原判決には理由齟齬の違法がある。

本件における問題は、

1 「柴沼ひろし」、「しばぬまひろし」、「シバヌマヒロシ」あるいは「しば沼ひろし」と明瞭に判読することができ、しかもいずれも名の部分が「ひろし」または「ヒロシ」と平仮名または片仮名で表示されている投票合計七六票(これらを「本件1の投票」という)

2 「しばぬまへろし」、「しばぬましろし」あるいは「しばぬひろし」のように誤字、脱字が認められるものの、「しばぬまひろ」と読み取れる投票合計三九票(これらを「本件2の投票」という)

が上告人(原告)柴沼弘道の有効投票か否かということである。

原判決は、本件2の投票は、いずれも誤字、脱字等が認められるものの、「しばぬまひろし」に対する投票であると読み取ることができるので、本件1の投票と同様に「しばぬまひろし」と記載された投票であることを前提にその効力について検討するとし、本件1、2の各投票が上告人柴沼弘道の氏名と合致していないものの、類似していることを認めたうえ、上告人の亡父の氏名柴沼弘と合致しているこれらの投票につき、結局上告人に対する有効投票と認めることはできない旨判示しているが、右判示には重大な理由齟齬がある。

一 先ず原判決は一般論として、「候補者制度をとる現行の公職選挙法のもとにおいては、選挙人は候補者に投票する意思をもって投票を記載したと推定すべきであり、また、同法六七条後段及び同法六八条の二の各規定の趣旨に徴すれば、選挙人は真摯に選挙権を行使しようとする意思、すなわち適法有効な投票をしようとする意思で投票を記載したと推定すべきである。したがって、前記のとおり、投票に記載された文字に誤字、脱字等があっても、直ちに無効投票とするのは相当でなく、その記載された文字の全体的考察によって当該選挙人の意思がいかなる候補者に投票したかを判断すべきであり、また、投票記載の氏名が正確には候補者の氏名を書いたものでなくとも、投票記載の氏名と類似の候補者が存在していて諸般の状況から当該候補者に投票する意思で書かれたものと認められる限りは、当該候補者のための有効投票と判断すべきものと解するのが相当である。なお、投票の記載が候補者の氏名と誤記と認められるほど近似していると同時に、それが候補者以外の現に実在し、あるいは過去に生存していた人物の氏名とも合致している場合においても、選挙当時その実在人等が当該選挙に立候補しているものと誤認・混同されるような客観的な情況が存在し、投票の記載が特に右実在人等を指向していたものと推認すべき特段の事情があればともかく、右の事情がない限りは、右投票は、その記載と類似する氏名を有する候補者に投票する意思で記載されたものと判断すべきである。」と説示している。

二 公職選挙法のもとにおける投票の効力の決定に関する推定や原則についての右説示は、従来の判例その他一般に承認されているところであって正当である。

しかし原判決は、本件においては、

① 上告人の亡父柴沼弘が地元において著名人であったこと

② 上告人の知名度が右亡父と比較して低かったこと

を認定したうえ、これをもって右説示の「特段の事情」すなわち「選挙当時上告人の右亡父が当該選挙に立候補しているものと誤認・混同されるような客観的情況が存在し、本件1、2の投票の記載が特に右亡父を指向したものと推認すべき「特段の事情」が存在したとし、結局本件1、2の投票を上告人に対する有効投票と認めなかった本件決定に違法はない旨判示しているが、以下のとおり右①及び②の事情は、本件1、2の投票を無効と判断すべき理由には到底なり得ないものである。

1 この点につき原判決は、次のように判断する。

(一) まず上告人の亡父柴沼弘につき、その身上、経歴、特に茨城県議会の長い議員歴や地域社会に対して貢献があったこと及び県議会議長在任中に死亡し、その葬儀が盛大に営まれ、この模様等がマスコミにより広く報道されたことを認定したうえ、「右認定の事実関係を前提に本件1、2の各投票の有効性について検討するに、亡父は本件選挙区と同じ選挙区を地盤とし、茨城県議会議員として長年にわたり政治活動に携わってきたものであって、地元では社会的・政治的知名度も極めて高く、相当著名な人物であったことは明らかであり、右の事情に照らすと、一般の選挙民のなかには、同人が本件選挙に立候補しているものと誤信するのも相当と思われる客観的な情況が一応存在していたものというべきである。」とし、

(二) 次に「本件全証拠をもっても、本件選挙当時、本件選挙区の全有権者が原告の亡父の死亡していた事実を知っていたとまではにわかに断定し難く、」「日頃政治的活動には殆ど無縁の立場にあり、また政治の動向等にも余り関心を持たない一般の選挙民のなかには、選挙における投票に際し、過去において地元では比較的著名であった政治家等の氏名に類似した者が立候補している場合、右著名人がすでに死亡していることを知らず、あるいはこれを失念し、同人が立候補しているものと軽信して投票するという行動に出ることもままあり得ることであって特段不自然・不合理ともいえない。」とし、

(三) さらに「殊に当該候補者の社会的・政治的活動歴が浅く、いまだ右著名人に比べて知名度等も低い場合においては、候補者の氏名等が類似しているからといって、明らかに著名人の氏名に合致している記載の投票を単に当該候補者の氏名を誤記したものとするのは相当でないというべく、本件1、2の各投票においては、候補者たる原告以外の原告の亡父を表示したものと推測すべきものが含まれているというべきである」旨判示している。

2 しかし原判決の右判示が明らかに誤っていることは、次のとおりである。

(一) 死亡した者が右のような著名人であれば、何故、その者が選挙に立候補していると誤信するのも相当と思われるのか。そのようなことはあり得ず、かえって死亡した者が著名人であればあるほど、当然その死亡の事実や、その者が今回は立候補していないことも選挙民に顕著なはずであり、本件につき原判決も著名人であった右亡父の死亡や盛大に営まれた葬式の模様等がマスコミにより広く報道された事実を認定しているのである。例えばラジオや新聞等の普及率も極めて低く、選挙民の一部以外は、著名人の死亡等の情報に接する機会が余りなかった昭和二〇年代当時の、それも候補者の地元選挙民との密着度の極めて弱い参議院議員選挙などであればともかく、情報の洪水ともいわれている現在の、それも地方の狭い選挙区で候補者と地元民との密着度が強い本件選挙において、亡父が著名人であったことは、死亡した同人が生存しているだけでなく、さらに立候補しているとまで誤信する理由には到底なり得ないものといわなければならない。

(二) 多数の有権者のうちには、政治や選挙に無関心な者もあって選挙で棄権する者も多く、そのような有権者のなかには、上告人の亡父の死亡にも無関心で、これをほとんど意識に留めておかない者も絶無であったとまでは断定できないが、いやしくも本件選挙において投票所へ行って候補者のうちの特定の者を支持しようとしてその氏名を記載した有権者のうちには、死亡した著名人の右亡父が生存しているばかりでなく、立候補までしていると誤信してしまうような者はあり得ないことである。

この点は、本件1、2の投票が上告人の亡父に投票する意思で記載されたものと仮定して考えてみれば一そう明白である。

すなわち、本件1、2の投票が上告人の亡父に投票するつもりで記載されたとすれば、それを記載した有権者は

① 前回の選挙以前から亡父を支持し、同人に投票してきたものか

② または、今回の本件選挙ではじめて亡父に投票する意思を抱いたものかのいずれかであり、これ以外の場合はあり得ない。

ところで右①の有権者であったとすれば、自分が以前から支持して投票し、当選させた候補者の病気、死亡、葬式やその子息である上告人が亡父の後継者として立候補していることに関心を持たずにはおれないことであり、このことは我々がよく経験することであって、まさに経験則であり、このような有権者が本件選挙の二年二か月前に死亡し盛大な葬式も終了しているその亡父の死亡も知らず、または失念し、さらに立候補までしたと誤信するなどということはあり得ないことである。

また仮に右②の有権者であったとすれば、以前は選挙権がなかったか、あっても右亡父を支持しなかったのに、本件選挙ではじめて右亡父に投票する意思を持つに至ったのであるから、本件選挙の二年二か月も前に死亡し、立候補もしていない右亡父が立候補していると誤信するというようなことは全くあり得ないことである。

(三) また上告人の社会的・政治的活動歴が浅く、いまだ亡父に比べて知名度が低かったことが何故原判決の前記判示のように、「本件1、2の投票を上告人の氏名を誤記したものと考えるのが相当でない」理由となるのか、到底理解できないところである。

有権者が本件選挙当時、既に死亡した著名人の死亡の事実を知っていたか否か、その者が生存していて立候補していると誤信したか否かということは、現に立候補している上告人の知名度とは何の関係もないことである。

なお、前述のとおり、情報の洪水ともいわれている現在において、特に本件選挙は、地方の限られた狭い地域における選挙で、候補者と地元選挙民の密着度が極めて強いうえ、上告人は亡父の死後、その後継者となる決意をし、これを同人やその家族、後援者があらゆる機会に、あらゆる方法で選挙民に周知徹底させていたのであり、さらに有権者の家族の一票一票の獲得が争われるほど熾烈を極めたその選挙戦により、上告人が著名人であった亡父の後継者として立候補していることが選挙民に周知されていたのであるから、上告人の社会的・政治的活動歴が浅かったことが、本件1、2の投票のなかに右亡父を表示したものと推測すべきものが含まれていると考える何の理由にもならないことはいうまでもない。

(四) 上告人の亡父が著名人であったこと及び上告人の社会的・政治的活動歴が浅く、その知名度が低かったことは、次のとおり原判決の右判示とは全く反対に、本件選挙で有権者が上告人の氏名を記載するつもりで、誤ってそれと極めて近似している上告人の亡父の氏名と符号する文字を記載してしまったことを確信させるものである。

著名人であり、その氏名を長い間よく耳にし、話し、また書いていた者にとっては、その氏名と近似する氏名を書いたり呼んだりするつもりで、ついうっかりして馴れているその著名人の氏名を書いたり呼んでしまうという誤りは日常我々のよく経験することであり、経験則である。従って本件選挙において、有権者が馴れていない上告人の氏名「しばぬまひろみち」と書くつもりで、ついうっかりして馴れていて癖になっている「しばぬまひろし」と記載してしまい、結果として右亡父の氏名と符号する文字を書いてしまったという誤りが相当多数あったものと推定されるのである。特に右両名では、氏の「しばぬま」ばかりでなく、名のうち「ひろ」までが同一であり、異るのは、名の末尾の「みち」と「し」だけであって、両者の氏名は文字も発音も極めて近似しているのであるから、有権者が一そう右のような誤りを犯し易かったことは間違いなのである。

文字や発音の近似しているA・BのうちAの氏名や名称などを書いたり呼ぶつもりで、ついうっかりしてBと書いたり呼んでしまうという誤りはよくあることであり、特にAが馴れておらず、Bがよく馴れている場合、馴れているBの方への誤りは一そう多いこと及び精神的ストレスがある場合などには右のような誤りはさらに多くなることは心理学的においても認められているところである(<書証番号略>)。

また投票所においては、一種独特の雰囲気から、ある程度気分的に緊張を覚えることは、我々のよく経験するところであって、これも一つの経験則というべきものである。

これらの点を合せ考えれば、本件1、2の投票は、有権者が上告人の氏名「しばぬまひろみち」と記載するつもりで、ついうっかりして馴れている「しばぬまひろし」と記載してしまったものと確信されるのであり、原判決は、これを前提に右投票の効力を判断すべきであるのに、前述のとおり上告人の亡父が著名人であり、上告人の知名度が低かったという理由にならないことを理由として右判断をするという誤りを犯しているのである。

第二点 原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令の違背がある。

一 原判決には重大な経験則違背の違法がある。

前述のとおり原判決は、「一般の選挙民のなかには、選挙における投票に際し、過去において地元では比較的著名であった政治家等の氏名に類似した候補者が立候補している場合、右著名人がすでに死亡していることを知らず、あるいはこれを失念し、同人が立候補しているものと軽信して投票するという行動に出ることもままあり得ることであって特段不自然・不合理ともいえない。」旨判示しているのであり、経験則という表現は用いていないが、右記載からみると、右判示のような経験則があるものとしていることは明らかである。

しかし、現実の選挙においてこのような場合の生じ得ないことは既に詳述したとおりであって、このような経験則は存在しない。

原判決は、何を根拠に、あるいはどのような経験に基いて、右のような経験則があるとするのか、全く理解に苦しむところである。

確かに相当著名な人であっても、平素その者と交渉がなく、その者に対して無関心である者にとっては、その著名人の死亡や葬式も知らず、あるいはその死亡を失念することがままあるということは、一般に我々がしばしば経験するところであって、これは経験則といえるものであろう。しかし原判決は、このような一般的な経験則を、棄権もせず投票所へ行って数人の候補のうちから特定の一名を支持しその者に投票しようとする有権者の投票行動に適用できるものと軽信してしまったとしか考えられず、この点に重大な経験則違背と論理の矛盾があるのである。

前述のとおり氏名等を記載する場合、それと近似する馴れた氏名をついうっかり記載してしまう誤りをし易いことはまさに我々の経験則であり、特に精神的にある程度緊張する選挙の投票行動においては、一そう右経験則が適用されるべきものであることは、論理的にも当然のことである。

原判決は、選挙の投票行動におけるこのような経験則や論理法則を考慮せず、著名人であった死亡者等に投票する意思で、その氏名を記載するという投票行動においては、現実に起こり得ず、従って経験則といえないものを前記のとおり経験則とし、これを前提に本件1、2の投票を無効投票とする重大な誤りを犯しているのである。

二 原判決には、事実認定権の明らかな逸脱による違法及び審理不尽の違法がある。

民事訴訟法第一八五条は、事実の認定について自由心証主義を規定している。しかし自由といってもその認定は、論理法則と経験則によって裏付けられたものでなければならず、また裁判官に期待される確信の程度も合理的なものでなければならないことは当然であり、そこに当然内在する限界があることはいうまでもない。

この確信の程度としては、「社会の通常人が日常生活の上で、自ら疑を抱かずにその判断に安んじて行動するであろう程度の心理状態を指し、当事者の主張が確からしいというのでは足りないが、また反対の可能性が絶無でなければならないとの神経質な態度を標準とするわけではない」といわれているのである(兼子一著・新修民事訴訟法体系増訂版二五三ページ)。

ところで原判決においては、前述のとおり「本件全証拠をもっても、本件選挙当時、本件選挙区の全有権者が原告の亡父の死亡していた事実を知っていたとまでにはにわかに断定し難く、」と判示しているのであってこの点において原判決は、以下のとおり二重の誤りを犯している。

1 右判示のように、本件選挙区の全有権者が原告の亡父が死亡していた事実を知っていたという証明、すなわち選挙区の全有権者のなかに、右亡父の死亡していた事実を知らなかった者は一人もいなかったという証明までを必要とするのは難きを強いるものであり、そのような証明は到底不可能なことである。

右のように最初から証明し得る可能性のない証明までを必要とするのであれば、それはもはや裁判上の証明や自由心証主義とは関係のない問題となってしまい、例えば公職選挙法に「特定の候補者の氏名と類似した投票であってもその記載された氏名が候補者以外の著名人の氏名と合致している場合には、その著名人を投票したものと見做す」というような規定があるのと同一に帰してしまうのであり、原判決は、民事訴訟法第一八五条に内在する当然の限界を逸脱している点において同法に違背するとともに、公職選挙法第六七条、第六八条の解釈・適用を誤っている結果となっているのであって、原判決の右認定の結果は、民事訴訟法第四〇三条の「原判決に於て適法に確定した事実」とはいえないものである。

2 また原判決のように、有権者が上告人の亡父の死亡の事実を知っていたか否かの点は、選挙区の全有権者について考える必要は全くないのである。

有権者のなかには、政治の動向や選挙について無関心で棄権をする者も多く、そのような有権者のなかには、著名人が死亡していても、その死亡の事実を知らなかったり、またこれを失念する者が一人もいなかったなどと断定できるものではないが、そのことが問題ではなく、本件において真に検討されなければならないのは、棄権をせず投票所へ行って上告人の亡父に投票しようという有権者でありながら、その死亡も知らず、かつ同人が立候補していないのに、立候補しているものと誤信する者があり得るような情況であったか否かということ、すなわち右亡父の死亡の事実等に関する情報がその程度のものであったか否かということである。

右の点の情報は、本件選挙の長い準備期間や運動期間を通じて選挙民に対し相当徹底していたことは既に詳述したところであるが、さらに本件決定後上告人側で本件選挙区の有権者九万人余りのうち、無差別に二三、六二一名について調査した結果、その中には、本件選挙の時点において上告人の亡父の死亡の事実を知らなかったものは一人も存在しなかったのである(原審証人岡野弘太郎の証人調書一七、一八項、二〇項)。右調査結果をもってしても、もち論本件選挙の全有権者が上告人の亡父の死亡の事実を知っていたとまでは断定できないものであることはいうまでもないが右調査結果からしても、すくなくとも投票所へ行って投票した有権者のうちには、右亡父の死亡も知らず同人が立候補しているものと誤信して同人の氏名を記載した者はあり得ないことと通常人であれば誰しも考えることは間違いなのである。

この点について、原判決が前述のとおり経験則に違背することなく、また右のように事実認定権を逸脱せず、正常な経験則・論理法則に従って判断していれば、通常人が常識的に考えて疑いを差し挾まない程度の確信は充分抱けたはずである。

なお原判決が前述のとおり「本件全証拠をもっても‥」とし、結局本件選挙で投票した有権者のなかには、上告人の亡父の死亡の事実を知らず同人に投票する意思でその氏名を記載した有権者の存在は考えられないということを考慮せず、また前述の投票行動におけるうっかりした表示の誤りの点を経験則として考慮しなかったのは、審理不尽の違法に基づくものというべきである。

すなわち原審では、上告人申請の五名の人証のうち一名のみを調べたに過ぎないが、その余の証人を調べていれば、本件選挙における投票者のなかには、同選挙時点で上告人の亡父の死亡の事実を知らなかった者はまず存在しなかったということや、前述のうっかりの誤りがいかに起り易いものであるかということが一そう明確になったはずである。

三 原判決には、挙証責任の分配につき判断を誤った違法がある。

前述のとおり(第一点の一)原判決は、投票の効力に関する判断上の推定や原則について説示しているのであって、この説示は正当である。

ところで右のような推定や原則からすれば、原判決がその例外としてあげている「投票の記載が特にその候補者以外の実在人または過去に存在していた人物を指向していたものと推認すべき特段の事情」については、その存在につき挙証責任があると考えるべきものである。

すなわち、一般的な推定があるならそれを覆すべき事象の存在につき挙証責任があり、また原則があるならその例外となる事象の存在について挙証責任があると考えるのは、論理上当然のことであり、このことは、投票の効力を判断する場合に依拠すべき公職選挙法第六七条、第六八条の趣旨とも符号するものである。

この点は、判例も公職選挙法第六八条一項二号に関し、「公職の候補者でない者の氏名を記載したものとは、投票の記載が公職の候補者でない特定の者の氏名を記載したと積極的にいい得る場合をいう。」として認めているところである(昭三五・三・二四高松高裁判決、行政事件裁判例集第一一巻五二四ページ、五五六ページ)。

原判決が「本件全証拠をもっても、本件選挙当時、本件選挙区の全有権者が原告の亡父の死亡していた事実を知っていたとまではにわかに断定し難く」としている点からすれば、同判決は公職選挙法の右規定に関する挙証責任の分配につき、その判断を誤り、誤った結論に至ったものというべきである。

以上の理由により原判決は破棄を免れないものである。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例